重粒子線治療との出会い「私が、放医研に来るとは…」山本直敬先生インタビュー

本記事は、株式会社法研が2012年3月24日に発行した「名医が語る最新・最良の治療 肺がん」より許諾を得て転載しています。
肺がんの治療に関する最新情報は、「肺がんを知る」をご参照ください。

手術経験と解剖の知識を生かし、重粒子線の切れ味を極める。めざすは1回照射による局所制御率100%

山本直敬(やまもと・なおよし)先生

 千葉県がんセンター、国立病院機構千葉東病院…、肺がんの手術ばかりをバリバリこなす外科医。数年前までの山本先生の姿です。2007年、その山本先生に大きな転機が訪れます。前治療室長の宮本忠昭(みやもとただあき)先生の退官を機に現職へのオファーがあったのです。「このままずっと外科を続けていくのか、別の道を選ぶのか」。悩んだ末に「肺がんの重粒子線治療をやっている人なんて、世界でもそんなにいない。やらせてもらえるならまたとないチャンス」と、心を決めました。もちろん、重粒子線の切れ味のある効果に対しては現場で実感をもっていましたし、解剖学的な知識がないと扱えないところに外科と似ているとの親近感もありました。
 実は、山本先生と放射線医学総合研究所(以下、放医研)とのご縁は古く、初めての出合いには、ちょっと苦い思い出があります。当時、山本先生は千葉大学医学部附属病院肺外科で、もっぱら肺がんの手術を担当していました。一方、放医研では重粒子線治療が始まったばかり。その効果はまだ定まっておらず、重粒子線の照射後、効果の確認のため、手術が行われていました。そうした患者さんの1人が、山本先生のもとに移されてきたのです。いざ、切除してみると…「驚きました、がんが完全に消えているんですよ」。重粒子線治療の効果を裏づける格好の症例とも受け取れますが、山本先生の思いは、手術を受けた患者さんに。「こんなにきれいに消えているなら、わざわざ手術することはなかったのに」と悔やまれました。
  「まさか、その私が、放医研に来るとは…」。およそ2年後、放医研に異動。宮本先生や各地から集まってきた若い先生たちに温かく迎えられ、よい雰囲気のなかで、それまでは、あまり詳しいとはいえなかった放射線療法の知識を得る機会となりました。しかし、そのときは、まだ呼吸器外科医としての修業が足りないと感じ、肺がんの手術経験を積める施設へ。そうした迷いの時期を経て、「自分は何をすべきか」と真剣に向き合い、今に至ったのです。
 今後の研究のテーマとしては大きく2つを掲げます。「(重粒子線治療で現在標準とされる4回照射からさらに進め、)1回照射で確実に、限りなく100%に近い局所治癒を得られるような治療法を開発しなければなりません。もう1つ、進行がんに対しては、どのような抗がん薬と組み合わせて、どれくらいの照射線量がベストなのか、定まった治療法を確立する必要があると思います」。
 家族や親戚(しんせき)にお医者さんがいたわけではありませんが「『ブラックジャック』の影響もあったかな」と、中学生のころから、なんとなく芽生えた医師へのあこがれ。そのころ、尊敬していた祖父の死を体験。「残念であると同時に、自分もまわりの大人も無力だな、と痛感させられました」。その無力感が勉強への原動力になったとか。そして、医学部に進んだころ、今度は父親が肺の病気に。肺がんではありませんでしたが、父親の病気についていろいろ調べるうちに、当時増え始めていた肺がんへの関心が高まり、進路は呼吸器外科に決めていました。呼吸という、生命と直結する活動を担う肺。研修医時代は、麻酔科や救急医療センターも経験し、得るものは大きかったといいます。
 高齢者や持病のあるがん患者さんの増加傾向を背景に、患者さんへの身体的な負担が軽減できる重粒子線治療の重要性は高まるばかりです。「とはいえ、重粒子線なら『なんでもできる』わけではありません。患者さんごとに治療法には向き不向きがあって、治療によってかえって悪化してしまう危険性もあります。治療によるマイナス面もよく理解したうえで、冷静に治療法を選んでほしいのです」。

山本直敬(やまもと・なおよし)先生

山本直敬(やまもと・なおよし)先生

放射線医学総合研究所重粒子医科学センター病院 治療室長
1960年和歌山県生まれ。88年信州大学医学部卒業。同年、千葉大学医学部肺癌研究施設外科入局。千葉大学医学部附属病院肺外科、千葉県がんセンター呼吸器科、国立病院機構千葉東病院呼吸器外科等で肺がんの外科治療を行う。97年4月~2002年3月まで放射線医学総合研究所重粒子医科学センター病院勤務、2007年5月より現職。


体幹部定位放射線療法(SBRT)

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