[クリニックインタビュー] 2010/04/09[金]

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大学病院が医療の最先端とは限りません。患者のこと、地域のことを第一に考えながら、独自の工夫で医療の最前線に取り組んでいる開業医もたくさんいます。そんなお医者さん達の、診療現場、開業秘話、人生観、休日の過ごし方、夢などを、教えてもらいました。

第62回
なかやまクリニック
中山健児先生

未知の原野を、自分の手で切り開きたい

nakayama_clinic01.jpg 僕は中学・高校の頃、国語の先生になりたいと思っていました。というのも、家に祖父母や父の蔵書がたくさんあり、幼い頃から本に親しんでいたからです。国語の先生になれば、一生好きな本を読んでいられるなと思って。
 一方、父からはいつも「医者になれ」と言われていました。父は自分が医者になりたかったのですが、医大の試験で初めて自分が色盲であることがわかり、落とされてしまった。だから自分の代わりに、僕に医者になってほしかったんですね。
 父は学習研究社で編集部長として医学大辞典を編纂する仕事につき、その後自分で医学系の出版社を立ち上げました。今では当たり前になっていますが、当時はほとんど未開拓だった、開業医の卒後教育の教材を次々と世に出す事業を始めたんです。医者にはなれなかったけれど、父はずっと、綺羅星のようなその道の第一人者たちと触れ合い、医学の最新知識に囲まれることで、医療の世界にたずさわっていました。
 でも僕は学校の先生になりたかったので、そのために受験勉強を続けていました。ところがあるとき、夜中にテレビで海外のドラマが流れまして。弁護士のドラマだったのですが、人のために生きる弁護士という仕事がかっこよくてね。それからしばらくして、僕は弁護士をめざして勉強を始めたんです。
 でも2年ほどすると、以前より弁護士に魅力を感じていない自分に気がつきました。弁護士は、基本的に過去の判例に基づいて物事を解決していくけれど、僕はもっと、未開の原野を自分の力で開拓していくようなことがしたいと思ったんです。宇宙飛行士や研究者などいろいろな仕事があるけれど、僕にとって、それは医者でした。体のなかは、宇宙と同じくらい謎に包まれています。人の体はもちろん、自分の体のことさえわからないでしょう。僕にとって一番身近な「未知の世界」は、父から問わず語りに聞かされてきた「医療の世界」だったんです。

父とともに、働きたかった

nakayama_clinic02.jpg 僕には、尊敬しお手本としている人が二人います。一人は、加藤文雄先生です。僕は大学卒業後、警察病院の医局に勤務したのですが、加藤先生は僕が入ったときから部長という立場でした。普通、部長は科を運営し統括しなければならないので、「新人を教育する医者」を教育し、新米の医師とはあまり接点がありません。しかし加藤先生は、自ら手術を行うなど最前線で活躍しながら、さらに右も左もわからない僕らにも、とても多くのことを教えて下さいました。先生に出会えたからこそ、今の僕があると思っています。
 そして僕は父のことも、心から尊敬しています。父は、平成2年に肺がんで亡くなりました。医者になりたくて、でもなれなくて、それならばと自ら医学系の出版社を立ち上げ医療の世界に貢献し続けた。僕がもっとも尊敬しているところは、父がいつでも前を見て、諦めなかったことです。
 父は、医者向けの教材を作るうちに、多くの人が東洋医学に興味を持っていることを感じていました。そして、なんと60歳近くなってから、鍼灸学院に入学。何十巻とあるぶ厚い研究書を読み、自分でサブノートを作って、講義テープも全部編集して東洋医学を学びました。そして3年後には、遠く新潟から鍼灸治療を受けに来る人もいるほどの実力を身に付けていたんです。
 父は日本で学べることをすべて学ぶと、今度は中国へ留学。中医学院で三年間学び、そこでも世界中から集まった留学生の中、主席で卒業しました。成績がトップの人は天津の上級学校に行くことができるのですが、当時日本人でそこまで行ったのは父だけです。
 その間、僕は父が帰ってくるのを心待ちにしていました。「親父と二人で、日本一のクリニックを立ち上げてやろう」と決意していたんです。
 そんななか、天安門事件が起こりました。父とも連絡がとれなくなってしまい、僕は日本大使館や現地の日本人会に何日も電話し続けました。やっとつながると、父は腰を悪くして天津の上級学校で寝ていることがわかったんです。嫌な予感がしました。その後なんとか飛行機をチャーターして帰ってくることができたのですが、成田に着いた父を見て「ああ、もうだめだな」と直感しました。父は肺がんを患い、腰椎転移して病的骨折を起こしていたんです。

父はいつでも、僕を見ている

 父が亡くなったあとは、心にぽっかり、穴が開いたようでした。心に描いていた未来が途絶えてしまったから。この先、何を目標に生きればいいのかさえわからなくなりました。
 ところが、縁とは不思議なもの。今のクリニックの前身である内科医院が閉院することになったんです。かなり前に亡くなられていた前院長は、父の友人でした。だれも引き受け手もなく困り果てた家族は、「ここを引継ぎ、院長になってくれないか」と、だめもとで僕に声をかけたんです。
 僕の家族や友人は、みな反対しました。ここは裏通りだし、ほかにたくさん医療機関があるので「やっていけるわけがない」と。だけど僕はそのとき、「父がやれと言っているんだな」と確信しました。そして、ここ新宿で開業することになったわけです。
 僕は物心ついたときから、父をずっと尊敬し続けてきました。僕はすごくなまけものだし、秀才でも天才でもなかったけれど、いつも「父が僕を見ているから、恥ずかしいことはできない」と思っていた。亡くなってしばらく経つけれど、今もまだ、見ていてくれる気がします。
 いつか、父を超えられる日が来るのだろうか。もしかしたら、超えられないまま一生を終えるかもしれないと思うと、ちょっとさびしい気持ちです。でもそれほどに、父は素晴らしい医療人でした。

リングドクターとしての仕事


院長は整形外科医のほか、K‐1、DREAM、空手・柔術などさまざまな格闘技のリングドクターも務める。

 今、僕はクリニックの仕事のほか、土日には格闘技の大会でリングドクターをしています。リングドクターの仕事は、試合で選手の安全を確保すること。よくテレビで見るように、リングサイドで選手が試合を続けられるかどうかを見るのが仕事です。でもそれだけではなく、大会を迎える前にレフェリーや競技役員たちと綿密なミーティングを行います。そこで彼らに正しい医学的知識を教えたり、逆に選手のこれまでの経験を学び、安全を確保する方法を検討することもあります。
 何を基準に、選手が試合を続行できるか否かを判断するか。よく人から尋ねられるのですが、はっきりとした基準はありません。医者としての知識と経験、その場の状況などから、総合的に判断します。
 例えば、傷から骨が露出していたら絶対に止めます。骨や関節は、感染に非常に弱い場所だからです。また血が眼に入ると油膜のようになって視界が遮られてしまうので、出血の具合によっては止めることもあります。一番判断が難しいのは頭のダメージです。選手は、10カウントのあいだに起き上がり、ファイティングポーズをとらなければいけません。でも10カウントというのは、あまり明確でない基準なんです。これまで歴史的に行われてきたから今も行っているけれど、10秒以内に立ち上がっても、ダメージが大きかったら続行不可能と判断します。
 リングドクターは、選手の人生に責任があります。だから本当に格闘技が好きで、選手が好きで、真剣に取り組める人でないとできません。僕は格闘技も選手たちも大好きだから、彼らのお手伝いをできることは本当に幸せだと思っています。

自分にできないことを知るために、学ぶ

 僕は何でもできる医者になりたかったから、今まで仕事ひとすじ、必死で頑張ってきました。アメリカへ留学することが夢だったので、そのためにECFMGの資格を取り、苦手な英語も10回受けてやっと合格。しかし「さぁ、留学・・・」と思ったときには家族もでき、種々の事情であきらめざるを得ませんでした。
 アメリカには行けなかったけれど、その代わり日本で何でもできる医者になりたい。その思いから、今でもコツコツ勉強していますし、専門外の勉強会にも積極的に参加するようにしています。
 その一方で、「自分は何でもできる」と過信してはいけないと思っています。医者にとって大切なのは、「自分にできるのは、ここまで」という範囲を認識すること。なかには、できないことをやろうとして、ひどい治療をする人もいます。彼らは、ほかの病院に紹介すると、患者さんが帰ってこないと思っているんですね。できることが限られているのに、紹介せず抱え込もうとする。なぜ、そんな恐ろしいことができるんだろうと不思議に思います。医者は患者さんの人生に責任があり、患者さんを幸せにするのが仕事なんです。
 僕は患者さんを診るときに「自分の持てる知識や経験が、患者さんの役に立っている」という自信があるから、ほかの医療機関に紹介したあとその患者さんが戻ってこなくても、なんら不快になることなどありません。僕は毎月30~40人はほかの医療機関に紹介していますが、この「紹介人数」というのは個人経営のクリニックを見る際の、一つの指標になるんじゃないかとさえ思います。患者さんをほかの医療機関に送れば、そこで自分のしてきた医療や自分のした判断が評価を受けます。それが怖い医者は、患者さんをほかに紹介などできないでしょう。僕は「いつも自信を持ってほかの医療機関に紹介できる医者」でありたいと思っています。
 僕ら医者の仕事は、患者さんの治す力を全力でお手伝いすることです。そして患者さんも、治るためには自分自身の「治る力」を邪魔しないで、手伝ってあげることが大切です。整形外科で言えば、重い物を持つときは腰を守るために体に近づけて持つ。ずっと同じ姿勢でいる仕事なら、10分に1回伸びをするだけでも違います。それから、体を暖めることや飲み薬も、患者さんの治す力を高めてくれます。
 すべての病気に通じることですが、病気とケンカしようとすると、心がくたくたに疲れてしまいます。骨の変形を治すのは難しくても、痛みは必ず治る。そのために、僕たち医者は精一杯のお手伝いをします。だから患者さんも、心の目を開いて医者を見てほしい。今までに受けた治療のことや不安に思っていること、こうしてほしいと思うことなど、遠慮せず正直に、なんでも話してほしいと心から思います。お互いを信頼して、一緒に病気を治していきましょう。

取材・文/瀬尾ゆかり(せお ゆかり)
フリーライター・編集者。編集プロダクション勤務を経て独立。医学雑誌や書籍、サイトの編集・記事執筆を多数手掛ける。ほかに著名人・文化人へのインタビューや、映画・音楽・歴史に関する記事執筆など、ライターとして幅広く活動している。

なかやまクリニック

医院ホームページ:http://www.nkym-cl.com/
nakayama_clinic_b02.jpg nakayama_clinic_b03.jpg nakayama_clinic_b01.jpg
院内には選手のサインが入ったフィギュアが並ぶ。
地下鉄有楽町線江戸川橋駅から徒歩5分。詳しい道案内は医院ホームページから。

診療科目

整形外科・内科

中山健児(なかやま・けんじ)院長略歴
中山健児院長
昭和56年 筑波大学医学専門学群卒業
昭和56年 東京警察病院整形外科入局
平成3年7月 なかやまクリニック開業


■資格・所属学会他
日本整形外科学会専門医、日本整形外科学会スポーツ認定医 、日本整形外科学会リウマチ認定医、日本リウマチ財団リウマチ登録医 、日本リハビリテーション学会臨床認定医、日本医師会認定産業医、日本医師会健康スポーツ医



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