第102回 「病気」ではなく、「病人」を治すという気持ち
[クリニックインタビュー] 2011/02/10[木]
大学病院が医療の最先端とは限りません。患者のこと、地域のことを第一に考えながら、独自の工夫で医療の最前線に取り組んでいる開業医もたくさんいます。そんなお医者さん達の、診療現場、開業秘話、人生観、休日の過ごし方、夢などを、教えてもらいました。
第102回
あずま医院
東都千春院長
理髪師か美容師になりたかった少年時代

子どもの頃は、その当時通っていた床屋さんの剃刀の扱い方に憧れていたのと、手に職をつけたいと思っていたので理髪師か美容師に。もし手に職をつけることが無理ならば、公務員になりたいと思っていました。父は今も現役の医師なのですが、開業医として休みなく働く父には、一緒にキャッチボールをしてもらったり、勉強を教えてもらったりという記憶があまりなく、子どもながらに寂しい思いをしていました。そのせいか、医者はとても忙しく休日もレセプトや往診に追われている大変な仕事だと感じ、家族と過ごす時間の少ない職業にはなりたくないと思っていたので、子どもの頃は医者になろうなんて思ってもいませんでした。父から「医師になれ」と言われたことがなかったのも大きかったですね。中学2年生くらいのときに、友だちと部活や将来のことを話し合う機会があり、「床屋になりたい」と言ったら、「お前の家は医者なのになぜ?」と言われたほどです。
ところが、友だちにこう言われたことが、医師である父、そして医師という職業について深く考えるきっかけになったのです。父は私の理想とする父親像からはかけ離れた人でしたが、非常に患者さんから信頼されている医師だったので、じつは医師としての父はとても優れている存在なのかもと思うようになりました。また、医師は大変そうだけど、非常にやりがいはある仕事なのかもと興味を持つようになったのです。理髪師もそうですが、もともと手に職があって人に頼られる仕事、人と接することができる仕事に就きたいと考えていたこともあり、その点でも医師はぴったりでした。そこで、医師をめざすことになったのです。
「病気ではなく、病人を治す」という発想

当院では内科、小児科、皮膚科が中心診療科目になっていますが、私の専門分野は呼吸器科で、医学博士も呼吸器科でいただいています。そのため気管支鏡検査なども可能なんですが、しかし私は専門医ではなく一般医(家庭医)になりたかったんです。以前いた病院では、ひとりの内科医がすべての専門性のある患者さんを診なくてはならない状況で、とくに当時は、その病院の医局長でもあり内科の医長でもあったので、救命救急はもちろん、胃カメラ検査、腹部エコー、心臓カテーテル検査などもやりました。とにかく内科全科を診ていましたね。そのおかけで、さまざまな病気の治療法をトレーニングできたり病気について深く知ることができたので、一般医としての今があると思っています。
ただ専門を経験していた分、専門ゆえの治療や手術の難しさや怖さも知っているので、開業してからは、開業医の範疇を越える治療はしないようにはしています。本当は自分で治療ができるけれど、ひとりでは手術もできないですし、当院には入院設備もない。そこで、すべての内科を診てきた経験を生かして、受診している疾患のフォローはもちろん、その患者さんの別の病気を発見したり、入院したほうが安全かどうかなどを瞬時に判断したり、その病気の治療に強い病院や専門医をすぐに紹介するようにしています。
どの患者さんに対しても「身内を治療する」というスタンスでやれば基本、間違いはないと思っています。いつも来ている患者さんは、入ってきた瞬間にどこが悪いかが大抵わかります。これは長年の経験もありますが、1回会ったときの容姿や印象をメモリーして、それをベースにしているので、次に会ったときに前回との違いが瞬時にわかるのです。実際に家族の診察をすることは滅多にないのですが、家族の具合が悪かったら、なんとなくわかりますよね。それと同じです。
また、「人間のすべてを治さないといけない」と思っているので、表面だっている病気を治療するだけでなく、ほかの病気をどれだけ見つけられるかも重要視しています。病気は誰でも治せますし、病気を治すことは当たり前のこと。だからこそ「病気を治す」のではなく「病人を治す」という気持ちで、患者さんひとりひとりに全力で集中するようにしています。
遺言代わりという父の言葉がきっかけで医院を継ぐ
膨大な数のカルテ。往診の依頼だけでも年に1000件前後あるという。 10年前に病院を継ぐまでは、15年間勤務医だったわけですが、本当は父の病院を継ぐつもりはなく、勤務医として終えるつもりでした。身体を壊すまで仕事を続けなければならない可能性のある開業医になる予定はありませんでした。勤務医、公務員として65歳くらいで年金でもいただいて退職をして、裕福な暮らしはできないとしても、残りの時間は家族との時間や自分の時間を作ってのんびりしようかなと思っていましたから。
ところが10年ほど前に、父親から「遺言だと思って聞いてくれ」と言われたので何かと思えば、病院を継いでくれということでした。今まで医師になれとも病院を継いでくれとも言われたことはなかったのでびっくりしましたね。でも、さすがに遺言とまで言われたら、継ぐしかないなと。ただし、いきなり病院を辞めることはできませんから、すぐに当時の教授に2年後に辞める旨を伝え、今に至ります。ちょうど40歳くらいのときのことです。
今は、父は85歳になりますが、私が往診で外に出ているときの週2回の午前中のみ、今も手伝ってくれています。でも自分は85歳まで医師としてやるつもりはなく、75歳くらいまで現役でいられたらいいなと思っています。それに、往診は60歳くらいまでかなと。今みたいに24時間365日、携帯電話などで拘束される体力は続かないと思います。
まさか自分が医者になるとは思ってもいませんでしたし、父のように休まずに、家族を犠牲にしてまで働くなんて……と思っていましたが、結局のところ、自分も年間に4~5日しか休めていない状態です。だからこそ、家族を大切にしたいと思っています。今は家族と食事をすること、そして妻と一緒に人間ドッグに行くのが目標ですね。
また、毎日1秒単位で追われて、つねに全力疾走をしているので、そんなときは外食をして気分転換をすることもありますし、2週間に1回、2時間のマッサージを受けています。身体のメンテナンスというよりは、頭をリセットさせるためなのですが、何も考えず頭の中を空っぽにすることで、日々の緊張を取除いています。忙しいわりには食生活や生活習慣にも気を遣っているつもりです。健康だからこそ働くことができ、おいしい食事もできて睡眠もとれるわけですから。
今以上に頼られる存在になりたい

ありがたいことに、私をキーパーソンにして、専門医や他の医院に繋いでほしいと思ってくれている患者さんも多いので、骨折や目が痛いなど、診療科目以外の症状の患者さんもいらっしゃってくれます。患者さんも飛び込みでいくよりは、いつも診ている私が紹介したほうが安心して行かれると思うのです。そのためにも、病院の研究会や病院主宰の研究会などにはきちんと参加して、他の病院の先生方と顔をつないでおかないといけません。ホームドクターとして、こうした患者さんと他の病院の医師の繋ぎ役もしたいと思っているので、医師同士の集まりに参加することは、ライフワークのひとつになっています。そして、自分が紹介した病院に患者さんが入院をしたときは、必ずお見舞いに行きます。短い時間でも顔を出してひとこと声をかけるだけで、患者さんの気持ちはずっと明るくなると思うのです。こうした信頼関係を築くことが次へと繋がりますし、何より患者さんが元気になって笑顔になってくれることほどうれしいことはないですから。
今後は、今以上に患者さんの立場に立った医療を考えていきたいです。患者さんによって、いわゆる3分診療だけでいい方もいれば、とことん検査をしたり大学病院の紹介までしないと納得しない方もいます。薬だけが欲しいという方だっています。こうした患者さんのさまざまなスタンスを瞬時に洞察して、それに合わせて対応していくことで、医師と患者の間にある少し離れた距離を埋めていかれるのではないかと思っています。そして、病院に行くのが面倒くさいと思っている人でも、あずま医院だったら行きたい、行ってもいいと思われるような医師をめざしたいです。僕に診てもらってよかったなと思えるような医療ができればいいですし、今以上に、頼られる存在になることができればいいですね。
出版社、編集プロダクション勤務を経て、フリーランスのライターに。新聞社や出版社の各種雑誌や書籍、ウェブサイトの企画編集、執筆や取材などを行う。
あずま医院

写真左:リラックスできる柔らかい色合いで統一された、明るく清潔感のある待合室。
写真中央:2010年の4月から移転しただけに、新しい外観が目を引く。
写真右:診察時間外でも、受付には予約の電話が鳴り響く。
京浜急行線南太田駅より直進 徒歩7分。
詳しい道案内は、病院詳細ページから。
診療科目
内科、小児科、皮膚科
東都千春(あずま・ちはる)院長略歴

1985年 横浜市大研修医
1987年 横浜船員保険病院
1990年 横浜市立大学第一内科
1992年 三浦市立病院
1998年 横浜市立大学第一内科医学博士
1998年 三浦市立病院内科医長
2001年 あずま医院
2010年 現在地に移転
■所属学会
内科学会、循環器病学会、呼吸器病学会、消化器病学会、日本臨床内科学会
- この記事を読んだ人は他にこんな記事も読んでいます。
掲載されている記事や写真などの無断転載を禁じます。