第71回 女性の心に寄り添う産婦人科医療を
[クリニックインタビュー] 2010/06/25[金]
大学病院が医療の最先端とは限りません。患者のこと、地域のことを第一に考えながら、独自の工夫で医療の最前線に取り組んでいる開業医もたくさんいます。そんなお医者さん達の、診療現場、開業秘話、人生観、休日の過ごし方、夢などを、教えてもらいました。
第71回
山田医院
山田 正興先生
女性が産婦人科に来ることの大変さを理解する
「女性が産婦人科の門を叩くのは、よっぽどのとき」というのが、産婦人科医として僕がいつも肝に銘じていることです。もちろん、待望の懐妊は別ですが、それ以外の理由で産婦人科を訪れるとき、女性の皆さんはそれぞれやむにやまれぬ理由を持っていらっしゃいますよね。そしてとても大きな決心をしてドアを叩かれています。だから、産婦人科医はその心にしっかりと寄り添い、何よりも丁寧にお話を聞かなければならない。そして患者さんが何を望んでいるのかを理解して、それをかなえるための治療に当たらなければいけない。産婦人科医として、このことを常に心がけています。
産婦人科医だった父を見て育った子ども時代

診察室は広々と取り、リラックスしてもらえるよう心がけている。
そもそも医師を志したのは、父の影響が大きいと思います。僕の父も産婦人科の開業医で、この中野に医院を持っていました。小学校高学年の大晦日のことを今でも覚えていますが、その日、大変に難産の出産がありました。赤ちゃんがとても小さくて危篤状態だった上に、お母さんも大量の出血をされていたんです。大晦日で人手が足らず、父と看護師さんは母体の手当てに追われ、僕の母が必死で赤ちゃんの心臓マッサージをしていました。僕も母を助けて、交代で心臓マッサージを続けることになったんです。父は一方でお母さんの処置をしながら、一方で僕らにも目を配り、必死で指示を出し続けていた‥今でも忘れられない、特別な思い出です。結局その夜、赤ちゃんもお母さんも無事に助けることが出来たのですが、長い長い一晩をくぐりぬけたとき、「医者ってかっこいいな」と肌で感じていました。僕の原点の体験ですね。
厳しい現状を知りながら、それでも産婦人科へ

お腹の中の赤ちゃんの様子を写すエコー検査機械。
やがて成長して医大生となりましたが、産婦人科へ進むことには迷いもありました。医局内でよく言われていた言葉ですが、「産婦人科は、ハイリスク・ノーリターンだ」と。出産に関わるということは、何かあったときの責任追及が非常に厳しい訳ですが、それにも関わらず産婦人科医がじっくり診療に取り組めるような体制は整っていません。これでは皆尻込みしてしまいますよね。最近になってようやく産婦人科医不足が社会問題として取り上げられるようになって来ましたが、問題は当時から始まっていたんです。
実際、大学を卒業して研修医となった後、僕も一度疲労で倒れています。何しろ人手不足ですから、当直が月に10回から15回。それ以外の日々の診療や手術もぱんぱんに詰まっているんです。月曜に家を出て、帰宅するのは日曜日なんてことはザラ。でも、これは本当に危険なことですよね。医師は人の命を預かっているのだから、ベストの状態で診療に臨める体制が絶対に必要です。あまりの過酷さに、一緒に産婦人科に入局した若手の中にも、他の科へ転科する人がぽつぽつ出ていました。それでも、僕は産婦人科を去ることは出来なかった。「人の命の誕生に立ち会えるのは、産婦人科だけだ」、そういう強い思いがこの仕事へと、僕を引き止めてくれたんです。
離島での医療体験
その後、医局の教授の薦めに従い、大学院へ入学しました。ここでは卵巣・子宮腫瘍の免疫について、より専門的な研究に取り組みました。‥とは言うものの、何しろ産婦人科は人手不足ですから、当直や手術も頻繁に担当していたのですが。
そして最終学年では、論文をあらかた先に書き上げていたので、「半年間、離島に行ってくれないか」という依頼を受けました。人口1万2千人に、たった一つの病院。八丈島の町立病院に赴任することになったんです。
ここでは本当に様々な体験をしました。何しろ先生はたったの4人。その4人で全ての科を診るんです。難しい病気の患者さんが来ると、4人で車座になって会議。どうやって治療したものか、話し合ったりしてね(笑)。本土から来た観光客が4、5名、交通事故で運ばれて来た日も大変でした。何しろメスを持てるのは外科の先生と僕だけ。朝から晩まで20時間くらい連続で手術をして、何とか翌日に本土へ送り出すことが出来たんです。
たまたまの巡り合わせで八丈島へ行くことになった訳ですが、若いときにこういう体験をしたことは非常に良かったと思っています。島の人たちともよく一緒にお酒を飲んで語り合いましたし、もちろん台風も経験しましたよ。台風が近づいて来るにつれてだんだんと食堂のおかずが減って来る‥(笑)。こんな体験、普通は出来ないですよね。全てが忘れがたい思い出です。
開業、そして小児科もスタート

子どもたちの心をなごませるため、診察室にはぬいぐるみを常備。
その後、医局に戻り、6年間勤務した後、中野で開業することになりました。実は大学院の途中で父が亡くなり、その時点で一旦病院を閉じていましたから、ほぼゼロからのスタートになります。不安も大きかったですよ。でも、「やる以上、3年は我慢しなさい。3年頑張らないと患者さんなんてつかないから」という母の言葉を肝に命じました。幸いたくさんの患者さんに支持して頂き、今に至っています。
小児科も診るようになったのは、15年前からです。これは患者さんの声に答えるための決断でした。「子どもも診てほしい」とおっしゃる患者さんがとても多くて、やらなければいけないな、と。日々の診療と両立させるのは大変でしたが、医師会の研修に通って勉強し、小児科治療をスタートさせました。
そうやって15年間子どもを診て来た僕が、今、心配していることがあります。それは、最近の子どもはとても弱くなっているのではないか、ということ。その原因は、あまりにも保護された環境の中で育っていることと関係があるのではないかと思っています。テーマパークに行ったりゲームをすることだけが遊びではないんですよね。子どもたちが土や水や草花に触れ、思い切り体を動かすような遊びを、親の世代が心がけて与えていかなければいけないと思いますよ。
臨まない妊娠――男性へのメッセージ
産婦人科には、臨まない妊娠をしてしまった女性が来院することももちろんあります。そのときに僕は必ず、相手の男性にも一度は来院してもらうようにしているんです。そしてしっかり話をします。
「君は、ここへ来たことで男としての責任を果たしたと思っているかも知れないけれど、それは違う。もう一歩進んで考えないといけないよ」と。「臨まない妊娠をしてしまったことの責任は、男女でフィフティ・フィフティかも知れない。でも、女性は心と体に大きな傷を負うのだから、痛みは7対3で女性の方がずっと大きい。だからこそ、やっぱり、子どもを育てられないなら男性が自分を抑えなければいけないんだ。それが出来ないなら女性とつき合う資格はない」と、はっきり話します。これは開業してからずっと続けているポリシーですね。
自分の体は自分で守る――女性へのメッセージ

ずらり並んだ絵本は、中野区が定期的に入れ替えてくれる。
もちろん、女性の側にも断る勇気が必要です。自分の体なんだから、自分で大切にしてほしい。それが僕から女性へのメッセージです。
同じことは婦人科健診についても言えるんですね。特に子宮がん健診の受診率はまだまだとても低いのですが、ウィルス性の子宮頸がんについては、ワクチンの接種でかなり予防出来るようになりました。また、発病してしまったがんについても、健診を受けて早期発見すれば、大事には至りません。ここでも、「自分の体を、自分で大切にしてほしい」、それが僕から女性に伝えたいメッセージですね。
私たち産婦人科医は、母体保護法という法律に基づいて診療をしています。命を宿し、出産する性である女性を守ることが、産婦人科医の使命。女性を守り、女性を助け、女性の心に寄り添いながら診療を続けていく。これからもそういう医師でありたいと思います。
フリーランス・ライター。広告代理店勤務を経て、2007年より独立。ビジネス人インタビュー、広告業界関連書籍など執筆多数。近著は『プレゼンのトリセツ』(ワークスコーポレーション刊、共著)。
山田医院
医院ホームページ:http://www.beijyu.com/doc/yamada/

JR中央線中野駅南口から徒歩3分。東京アスレチッククラブ(TAC)隣り。エントランスには美しい花が。「女性の患者さんのために、常に花を絶やさないようにしているんです」。子どもたちが退屈しないよう、待合室にはおもちゃがぎっしり。
詳しい道案内は医院ホームページから。
診療科目
内科・消化器科・整形外科・リハビリテーション科
山田 正興先生略歴

1979年 日本医科大学病院産婦人科入局
1980年 日本医科大学大学院入学
1984年 日本医科大学大学院卒業
1990年 山田医院開院
■所属学会
日本産婦人科学会、日本産婦人科医会、日本小児科医会
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