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[医療人] 2010/08/06[金]

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大学病院が医療の最先端とは限りません。患者のこと、地域のことを第一に考えながら、独自の工夫で医療の最前線に取り組んでいる開業医もたくさんいます。そんなお医者さん達の、診療現場、開業秘話、人生観、休日の過ごし方、夢などを、教えてもらいました。

第79回
池田耳鼻咽喉科
池田麻子先生

医学一家に育ち、自分も医療の道へ

 池田耳鼻咽喉科は1993年、母・池田美智子が開いた医院です。私は大学卒業後、幾つかの病院に勤務した後、3年前から参加しました。
 我が家は典型的な医学一家です。父と母は医大の同級生。兄は内科医です。父方、母方の親戚にも医師が多く、それでも、両親からは「医師になりなさい」と言われたことは一度もないんですよ。中高一貫の女子校に通ってのんびり楽しく過ごし、将来どうしようなんて深く考えてはいませんでした。ただ、そうは言っても、大学受験を前にして医師という職業がだんだんと視野に入ってきたのは、やはりこの家に育った影響が大きいと思います。医師というのは、ストレートに「人の役に立っている」ことが分かる職業ですよね。そういう仕事をしている両親を尊敬していたし、特に母は、まだ女医がそれほど多くなかった時代から、先駆者的にこの仕事を続けてきた人です。かっこいいなと素直に思っていましたね。
 そうやって徐々に思いを固めて、高3の夏、最終的に「医学部を受けよう」と決めました。かなり遅いスタートだったから、周囲からは「本当に間に合うの?」と心配されましたよ。とにかくそこからは猛勉強。東京医科大学に合格しました。
 そうやって一旦医学の道を歩き始めた後は、もう迷うことはありませんでした。これはやはり医学一家で育ったことの良い影響だと思いますが、医師という職業の大変なところは充分分かった上で、それでも医学の道を選んだ訳です。泣き言は出て来ませんでした。実際、卒業後に現場に出た後はとてつもなくハードな毎日が続きましたが、「辞めたい」と思ったことは一度もないですね。
 私たちが医局に入った当時、研修医をはじめとする若手医師の仕事は膨大にありました。当時は今とは違って、採血も点滴も患者さんのデータ整理も、全てが若手医師の仕事でした。もちろん診療もするし当直もすぐ回って来るし、休日もしょっちゅう急患の呼び出しがあります。ほとんど休める日がない生活でした。大学時代は、女子高の頃の友人とよく遊びに出かけていましたが、医局に入ってからは全く会えなくなってしまって‥さすがにそのことだけはとても寂しかったですね。その代り、一緒に医局に入った同期8人と、残業後のちょっとした機会を見つけては飲みに行っていました。そこで愚痴をこぼし合ったり、励まし合ったり。同期の結束が大きな支えになったと思います。
 そもそも耳鼻咽喉科に進んだのは、じっくりと、様々な条件を考え合わせてのことでした。医療界全体を見渡してみると、女医が多い分野、女医が活躍しやすい科というのはやはりあるんですよね。皮膚科、耳鼻科、内科‥患者さんの顔にぐっと近づいたり、肌に触れることが多いような科には女性の医師が多いんです。また、産婦人科で、同性のために働くのもいいなと思っていました。そんな中、最終的に耳鼻科を選んだのは、何と言うのかな、マニアックだったから(笑)。私は、人と同じことをするのが好きじゃないんですよ。耳・鼻・のどってかなり特別な構造を持った器官で、更に、内科の要素も外科の要素もある。両方出来るのがいいなと思いました。

患者さんの「納得」が治療に影響する。だから、話す


ネブライザーは「すっきりする」と患者さんに大人気。

 そうやって耳鼻咽喉科の医局に入り、5年目に、博士号を取るために更に専門的な自分の研究分野を決定することになりました。そのときに選んだのが音声外科です。これもまた耳鼻咽喉科の中でも、特にマニアックな分野なんですよ(笑)。がんやポリープ、のどの使い過ぎなどで声が出にくくなってしまった人のための治療法を研究します。私の所属していた慶應義塾大学の音声外科は歴史も古く、日本でトップクラスの研修班でした。また、山王病院の国際医療福祉大学東京ボイスセンターにも非常勤で通い、臨床経験を深めていきました。
 振り返ってみると、この頃が一つのターニングポイントだったと感じますね。研究分野が決まっただけでなく、5年目ということで、徐々に診療方針そのものに関わる立場になってきました。それまでは患者さんを診ると言っても、教授に現状を知らせるための下調べ的な診療。手術のときも、助手として入っているだけでした。でも5年目頃からは、自分が診療報方針を立てて執刀もするようになる。本当の責任が生まれ、医師としての自覚が深まっていく時期でした。
 そうやって、勤務医として幾つかの大きな病院で働きながら、たくさんの患者さんたちと出会うことにもなりました。特に私が最初に勤務していた慶應病院は、社会的地位の高い方も入院していらっしゃいましたし、もちろんごく普通の会社員や商店主の方もたくさんいらっしゃいます。毎日様々な患者さんと接しながら、結局病気になれば、人間は皆同じなんだと思うようになりました。地位やお金は関係ない。皆さん一人の人間として、病気と向き合い、悩み、迷うんだ、と。
 そして痛感したことは、患者さんと医師が深い信頼関係を築けるかどうかが、いかに治療に影響するかということでした。手術や治療の方針には、常に様々な選択肢が存在しています。Aの方法なら治る見込みは80%、Bの方法なら60%‥‥そうやって、条件を機械的に患者さんに話すことはもちろん出来ますが、それだけではまったく足りないんですよね。患者さん一人一人は、当然、それぞれ違った人生観を持ってそこまでの人生を生きて来られた訳です。その人生観に一番合った治療法は何なのか、どうしてこれなのか、そこを納得していただかなければ、やっぱり治療の効果は上がらないんです。そういう例をたくさん見てきました。
 だから、患者さんとはよくお話をします。そして時には看護師さんから、患者さんについての情報をもらうこともありました。「Aさん、先生の前では強気に振る舞っているけど、本当はくよくよ悩まれているんですよ」と分かったりしてね。患者さんの人物像にいかに近づくかということを考えるとき、看護師さんとの協力体制はとても重要です。看護師さんの方が患者さんと一緒にいる時間が長い訳ですから、医師に分からない情報を持っていることが多いんですよね。だから、治療や手術の方針を最終的に決める患者さんとの最後のお話し合いの場に、看護師さんに参加してもらうこともよくありました。医師一人ではなく、チームとして病気に立ち向かう。“チーム医療”の考え方を大切にしていました。

地域医療こそが現状を変えると信じて


診察室の中の中待合室。順番が近くなって来るとこちらに座ってもらい、すぐ診療出来る体制へ

 そうやって10年間を勤務医として無我夢中で過ごし、無事に博士号も取得することが出来ました。大病院で、最新の医療技術を駆使して、難しい手術や治療に取り組む毎日。特に最後の3年間は、張り詰めながらも非常に充実した時間だったと、今でも時々なつかしく思い出します。でも、ちょうどその頃に、もう一つの転機が訪れました。東中野の母の医院に参加することを決めたんです。
 この決断に至るには二つの理由がありました。一つは、「母を助けたい」という気持ちです。ちょうどその頃母は都内に医師ながら保育所を開設していました。「子どもを持つ女医さんが子育てで仕事をあきらめることがないように!」その一念で、母が私財を投げ出して作った保育所です。
 その当時、慢性的な医師不足が、社会問題として話題に上るようになっていました。母はその原因の一つに、「子育て期にたくさんの女医が、やむを得ず仕事から離れなければならない」という事情があると考えたのです。実際、私や兄を育てるときに、母も仕事と子育ての両立に様々な苦労があったようです。安心して子どもを預けられて、しかも夜遅くまで開いている保育所。医師の仕事は「5時で上がり」と言う訳にはいきませんから。そういう、頭の中の理想を現実化させた母を心から尊敬すると同時に、医院と保育所、二つの場所を行き来する生活に、母が相当疲労困憊しているなということもよく伝わってきました。それならば、ちょうど自分も耳鼻咽喉科を専門としていることだし、母を助けようと思ったんです。
 また、もう一つの大きな理由は、大病院で勤務するうちにだんだんと見えて来た、日本の医療界の実状です。大学病院や市民病院に1度でも行かれたことがある方ならご存じかと思いますが、とにかく患者さんの数が多いですよね。「1時間待って5分診療」などということも、残念ながら少なくないと思います。要するに大病院に患者さんが集中し過ぎている訳ですが、この現状は患者さんにとっても良くないし、医師にとっても非常に過酷なものなんですよね。医師たちは一人一人「患者さんのために」と頑張っていますが、でも、医師だって人間。ざっくばらんに言ってくたくたな訳です。この状況を何とか出来ないかと思うようになりました。
 そのためには、地域の医院が、もう少し進歩していかなければならない。私がたどり着いた答えはそういうものでした。今は、少し難しい病気となれば、すぐに患者さんを大病院に回してしまいますが、地域の医院が受け持つ範囲をもう少し広げられないか、と。例えば私の病院では、今、内視鏡検査が出来る体制を取っていますが、そういう風に、地域の中のいわゆる“かかりつけ医”が今より1段か2段高い診療範囲を受け持てるようになれば、「何でもかんでも大病院へ」という現状を変えることが出来るはずです。そして大病院の先生は、ガンをはじめとする本当に難しい病気の治療に専念出来る。若い医師が新しい意識を持って地域医療に足を踏み入れることで、日本の医療界に貢献出来ると考えたんです。

この地で、前線でたたかう医師にもエールを送りたい


患者さんが心休まるようなやさしい絵を診察室に

 そうやって実際に東中野での仕事が始まってみると、まず子どもさんが多いことにビックリしました。もう、ここは幼稚園?って言うくらいに、子どもたちは待合室で元気いっぱい。それから、大病院だと外来患者さんとのおつき合いはどうしても一期一会になりがちですが、ここでは1日おきにうちへいらっしゃるお年寄りもいらっしゃって、これはとても新鮮な体験でしたね。どうやら私の顔を見ることで安心して下さっているようで、本当に嬉しいことだと思います。そう言えば、子ども連れのお母さんも、「この子がお腹が痛いって言うんです」って、それは内科だよ!と思いますが(笑)、そうやって頼りにしていただけることがとても嬉しい。地域医療ならではの醍醐味を毎日感じています。
 ただ、それだけではこれまでの地域医療と変わらなくなってしまうので、積極的に勉強会や医師会の集まりに出るよう心がけています。大学病院にいれば自然に耳に入る情報も、地域の中で日々の診療に当たっているだけではキャッチすることは出来ません。時代遅れにならないように、新しい医学知識を吸収することは必須だと思っています。
 また、新しい試みとして、今年の3月から“補聴器外来”と“声がれ外来”を始めました。今まで休診にしていた木曜日を使って、専門性の高い治療に取り組んでいます。
 「せっかくの休日をつぶして新しい診療を始めるなんて、疲れませんか?」と言われることもありますが、もちろんそんな風には思っていません。ハードだった勤務医時代を支え合って一緒に過ごした同期8人の中には、今でも大学病院に残って、頑張り続けている人もいます。彼らのような医師は絶対に必要で、彼らがいなければガンなどの難しい病気を治すことは出来ません。今の私は、彼らと比べれば多くの自由時間を手にしているのだから、その分、地域医療の質を上げる努力をしなければいけない。そうやって彼らを助けなければいけない。地域医療に移ると決めたときの初志を、忘れてはいませんよ。

取材・文/西本摩耶(にしもと・まや)
フリーランス・ライター。広告代理店勤務を経て、2007年より独立。ビジネス人インタビュー、広告業界関連書籍など執筆多数。近著は『プレゼンのトリセツ』(ワークスコーポレーション刊、共著)。

池田耳鼻咽喉科

医院ホームページ:http://www.e-doctors-net.com/nakano/ikeda/

JR総武線・都営地下鉄大江戸線東中野駅から徒歩3分。西口(総武線)・A2出口(大江戸線)を出て「桜川橋」信号で山手通りを渡り、JRの線路沿いに直進した左側。医療ビル“メディカルコートタカダ”2階。
詳しい道案内は医院ホームページから。

診療科目

耳鼻咽喉科

池田麻子先生略歴
池田麻子先生
1997年 東京医科大学卒業
1997年 慶応義塾大学病院研修医
1998年 国立病院東京医療センター耳鼻咽喉科勤務
2002年 慶応義塾大学病院助手
2005年 東京都済生会中央病院耳鼻咽喉科勤務
2006年 医学博士号取得
2007年 池田耳鼻咽喉科副院長


■資格・所属学会他
日本耳鼻咽喉科学会、日本気管食道科学会、日本頭頸部癌学会、日本喉頭科学会、日本音声言語医学会



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