第95回 患者さんと医師、共にハッピーにする現場改革
[クリニックインタビュー] 2010/11/26[金]
大学病院が医療の最先端とは限りません。患者のこと、地域のことを第一に考えながら、独自の工夫で医療の最前線に取り組んでいる開業医もたくさんいます。そんなお医者さん達の、診療現場、開業秘話、人生観、休日の過ごし方、夢などを、教えてもらいました。
第95回
岡田医院
岡田道雄先生
中学時代から医師を志す
岡田医院は父が開業した病院で、僕が二代目。現在は息子も加わり、三代にわたって練馬の土地に根づく医院になりました。
僕自身が医者になろうと決めたのは、人生のわりと早い時期です。患者さんのためにいつも一生懸命だった父の姿を見ていて、医者っていいなと自然に思うようになっていたんですね。中高一貫の私立中学に通っていましたが、どうしても慶応の医学部に行きたいと、その一貫校を飛び出して慶応高校を受験することを決意しました。だから、こうして考えてみれば、中学生のときに既に進路が定まっていたということになりますね。狙い通りに慶応高校から慶応の医学部へ進学して、卒業後はインターン終了後、慶応病院の内科へ入局することになりました。
実はここで僕にとって大きな転機が訪れます。1年足らずで日本を飛び出し、アメリカへ武者修行に出ることにしたんです。その理由は、当時の日本の医師育成システムに満足出来なかったら。僕が入局した当時、大学病院は研究者の養成に主眼を置いていました。ベッドはいつも満床で、新しい患者さんを受け入れる余裕はほとんどなく、午前中の回診を終えれば後は研究活動に入ってしまうんです。「ここに何年いても、現場で患者さんと対峙する実力は身につかないな」と、思い切ってアメリカの病院で実践を積むことを決意しました。
当時、アメリカはベトナム戦争の真っ最中。医師不足の状態でしたから、海外からの医師は大歓迎されていました。慶応病院での仕事の合間に語学学校に通って英会話力を身につけ、まず、ニュージャージーの病院で働くことになりました。そして翌年はボストンの病院へ移り、合計2年間をアメリカで過ごすことになったんです。
とことん現場主義のアメリカで新米医師時代を過ごす
そうやって始まったアメリカでの生活は、日本とは天と地ほどの差がありました。何しろ救急車で運ばれて来る患者さんだけで、1日に90人も来るような病院でしたからね。救急外来に配属されていた期間は、その大量の患者さんを、内科に関しては僕と上の先生のたった二人で診るんです。正に無我夢中の毎日でした。
そんなアメリカでの日々の生活をざっとお話ししてみますと、まず、当直は3日に1回。そして毎朝のミーティングで、前夜の自分の処置を報告します。すると上の先生から「何故こうしなかったのか?」「こんな処置もあった」とアドバイスをもらうことが出来、これが非常に勉強になりましたね。それから朝の回診が始まって、ここでもまず最初に僕が患者さんを診ます。その診断に関して、先生からアドバイスをもらえるんです。全てが現場に即している新人養成システムですよね。
昼は、ランチを食べながら勉強会。院内では常にたくさんの勉強会が開かれていて、どれも非常に有益なものばかりでした。そして午後は外来や急患の患者さんを診て、夜は夜で近隣の病院の勉強会に参加することもよくありました。こんな刺激的な毎日が来る日も来る日も続くんです。本当に充実していて素晴らしかった。ありったけのものを吸収して過ごした2年間でした。
アメリカで学んだシステムを日本に根づかせる
そうは言っても僕の最終的な目標は日本での開業でしたから、アメリカスタイルで思う存分最新の現場医療を体得した後は、帰国することを選びました。
帰国後に勤務したのは、東京都済生会中央病院。アメリカ式の教育システムを「レジデントシステム」と言いますが、済生会中央病院には僕と同様、米国でのレジデントシステムを経験した先生が多くいらっしゃいました。「何とかこの方式を日本にも根づかせたい」「それが日本の医療のためになる」という思いを皆が共通に持っていましたから、そのために、今あるシステムのどこをどう変えて行ったらいいのか、日夜議論して、決まったことを一つ一つ本当に実行に移して行く。30年以上前に、今の日本の卒後教育システムの基を作り上げたのでした。とてもやりがいのある職場でしたね。
そうやって済生会中央病院に10年在籍した後、今度は杏林大学病院に移ることになります。これは人の縁がきっかけでした。学会でよく顔を合わせる先生方の中に杏林大学の教授がいらして、この方に声を掛けて頂いたのです。
そして移った杏林大病院では、心臓などの循環器を専門とする第2内科で、助教授として、若い医師たちの教育にも力を注ぎました。しっかり自立してもらいたいという思いからずいぶん厳しく接したので、たぶん陰では怖がられてたんじゃないかな(笑)。
町の医院でありながら大病院並みの治療‥その秘策とは?
そうやって杏林大学で10年勤務した後、1992年、父の岡田医院を継ぐことになりました。父も老齢に差し掛かっていましたから、いよいよ時機が来たなという思いでしたね。
実は、このようにして大病院を離れ、市中の医師として新たなスタートを切るに当たり、僕には大きなビジョンがありました。それは、「町の医院でありながら、大病院と同じ内容の外来診療が出来る医院である」こと。このことについて少しお話してみましょうか。
日本では一般的に、大病院と町の医院との棲み分けがありますよね。内科で言えば、風邪を引いたら町の病院へ、ちょっと難しい病気になったら大病院へ行く。これは裏を返せば、いくら大病院で活躍して深い知識を持っている医師でも、一旦開業してしまえばその知識を生かす場がなくなってしまうということになります。僕は日本の医療のこういうあり方に大きな疑問を持っていたんです。
実はアメリカではこんなことはないんですよ。優秀な医師が個人で小さなオフィスを開業して、自分の患者を大病院に入院させる。医師は日々大病院に出向いて回診をしたり、そこの設備を使って検査も行う‥そういうシステムが確立しています。もちろん今の日本にここまで仕組みの違うシステムを導入することは不可能ですが、やり方によっては、かなり近いことが出来るのではないかと思っていました。
結局、大病院と町の病院を分けているものは、設備なんです。正しい診断を下すためにはCTなどの様々な検査が必要ですが、そのための機器は非常に高い。これを町の医院が購入して、なお且つ経営を成り立たせて行くことは到底不可能です。でも、もしも大病院の機械を町の医院が利用出来る仕組みが出来ていたらどうでしょうか?
例えば僕の所に患者さんが来て、「Aの検査とBの検査が必要だ」と判断したとしますよね。そこで僕は大病院に電話を一本入れて、検査の予約を取る。患者さんはその予約日に、検査だけのために大病院へ出かける訳です。そして後日、結果は僕の所に来ますから、その結果を元に、治療は僕がして行くことになる。「病診連携」という考え方です。
病診連携システムの良いところは、患者さんが地元から離れた病院に何度も何度も通う苦労を省けること。しかも大病院の場合、そうやって苦労して行った待合室で何時間も待った上に、たった5分の診療ということがほとんどですよね。何しろそもそも診療予約ですら取るのが大変な状況なのですから。でも、この長い「待ち」の期間が病状に悪い影響を与える場合だってある。家の近所で的確な診療を受けられれば、それがベストなんです。

診療室のベッドには丈夫な木の板が。「心不全の診断には、45度の角度で頸動脈を見ることが必要なので。これも学会では通説となっていますが、実践している病院はほとんどないと思いますよ」机用の板を利用しているそう。
また、今の日本の現状は、医師にとっても不利益なことばかりです。折角経験も知識もある医師が、開業をしたばかりに腕を振るう場所がないというのでのは、これもあまりにももったいない。患者さんにとっても医師にとっても不利益なこのシステムは、大病院の設備を町の医院が利用出来るようになれば、必ず改善出来るはずなんです。
実は僕は「病診連携」の仕組みを、既にアメリカにいるときから構想していました。だから帰国して済生会中央病院に就職したときから、将来父の医院を継ぐ日を見越して、「大病院の高度な機器を、外部の医師が自由に利用出来る、そういう病院になるべきだ」と主張し続けてきました。その結果、済生会中央病院は「病診連携室」を新設し、そこを通じて、「外部の先生が自由に、全ての検査を予約出来るシステム」を20年以上も前に完成させました。最近ではこれに近いシステムが近隣の病院にも出来つつあるんですよ。
今、僕の医院では、大病院で診療を受けるのと全く同じ高度な検査を、済生会中央病院をはじめとする複数の病院や、医師会の検査センターを通じて患者さんに受けてもらうことが出来ます。そしてそのデータを元に、僕が治療を行っています。すなわち、町の開業医の外来が、大病院の外来と同等の診療を行うことが可能になった訳です。地域の皆さんに、最良の医療をお届けしているという自信がありますよ。
「患者さんのため」を考えたもう一つの仕組み

医師だけでなく、管理栄養士など専門家も患者さんへの説明を行っている
ところで、医院を運営するに当たり、実は僕が編み出したもう一つ別の独自の仕組みがあります。それは一言で言うと、「自分の腹心を作る」こと。これについても少しお話してみましょう。
患者さんに対して治療の効果を最大にするためには、「何故この薬を定期的に飲む必要があるのか?」「何故食餌制限をしなければならないのか?」そういった治療の理由を、患者さん自身が理解していることが実はとても大切です。何故なら、そうすれば患者さんが治療に協力的になり、効果を最大にすることが出来るから。けれど、それには、患者さんと長い時間をかけて話をすることが絶対に必要です。患者さんは医療に関しては素人なのですから、医師が一つ一つ丁寧に説明して、治療の意味を納得してもらわなければなりません。
ところが、今の日本の医療制度というのは、医師が一人一人の患者さんにたっぷり時間をかけていると、病院経営そのものが成り立たなくなるように出来ています。だからほとんどの医師は、「本当はもっとじっくり患者さんと向き合いたい」と思いながら、日々多くの患者さんをさばかざるを得ない状況です。学会では「高血圧の治療には患者さんにあれをしてもらうことが必要だ、これもしてもらうことが必要だ」と盛んに発表されていますが、実際に実践出来ている医師がどれくらいいるでしょうか?これもまた、患者さんにとっても医師にとっても一つも良いことのない状況ですよね。
この現状を変えるために、僕は、自分の腹心を作るという方法を考え出しました。具体的にはどういうことかと言うと、高度な医療知識を持った看護師、栄養士、検査技師を育て、患者さんの指導や、診療の一部を肩代わりしてもらうのです。僕の診療室とは別の部屋でこれらのことを僕に代わってやってもらうことによって、他の患者さんを待たせることなく、十分な診療を行っていくことが出来ます。父の跡を継いでこの地で治療を始めてから18年。今ではこのシステムが非常に上手く機能していると実感しています。
土日は東京を離れ、全面的に気分転換
お蔭さまでたくさんの患者さんにご来院頂き毎日多忙に過ごしていますが、週末はガラッと気分転換することが僕の信条です。妻と金曜の夜から車で東京を離れ、土日は自然の中でゴルフ三昧。冬は冬でスキーを楽しみます。非常に良いリフレッシュになっていますね。
それから、平日は、毎朝1時間の速歩、ストレッチ、ジョギングを欠かしません。この辺りは自然豊かな公園もありますし、ジョギングには最高の環境ですよ。職住接近で通勤がない訳ですから、放っておくと1日中じっと診療室に座っているだけ。全く体を動かさなくなりますからね。1時間歩いたり走ったりすることで体力作りをはかっています。
今、理想通りの医療
振り返ってみれば、僕は、人生の非常に早い時期から医師という職業を目指してきた訳ですが、そのときどきで様々な矛盾にぶつかってはいるんです。でも決して「ダメだ」とは思わない。そうではなくて、「どうすれば変えられるのか?」、その仕組みを考える。これが僕の性分なのかも知れませんね。
医者だって生きて行かなければなりませんから、採算が取れる医院経営を目指すのは当然のことです。けれどそのために患者さんをないがしろにするようなことは絶対にしたくない。採算が取れて、しかも最良の治療を施し、患者さんに喜んで頂ける。その理想を目指して考え出した仕組みが今、僕の医院の中で全て上手く回り、「理想通りの医療」が出来ていることに深い喜びを感じています。
フリーランス・ライター。広告代理店勤務を経て、2007年より独立。ビジネス人インタビュー、広告業界関連書籍など執筆多数。近著は『プレゼンのトリセツ』(ワークスコーポレーション刊、共著)。
岡田医院
医院ホームページ:http://nerima-okada-iin.jp/

西武新宿線「武蔵関」駅南口下車、徒歩5分。JR・京王井の頭線吉祥寺駅から西武バス、JR荻窪駅・三鷹駅から関東バス、「関町北1丁目」バス停下車、目の前が岡田医院。
詳しい道案内は、医院詳細ページlから。
診療科目
内科・循環器科
岡田道雄先生略歴

1967年 慶応義塾大学病院インターン
1968年 慶応義塾大学病院内科入局
1969年 米国ニュージャージー州フィトキン記念病院にてインターン
1970年 米国ボストン市レミュール・シャタック病院にて内科レジデント
1972年 東京都済生会中央病院内科勤務
1982年 杏林大学医学部付属病院第2内科講師
1984年 同助教授
1992年 岡田医院医院長。杏林大学医学部付属病院第2内科客員教授を兼務
■所属学会
日本内科学会、日本循環器学会、日本心臓病学会
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