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[クリニックインタビュー] 2010/12/03[金]

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大学病院が医療の最先端とは限りません。患者のこと、地域のことを第一に考えながら、独自の工夫で医療の最前線に取り組んでいる開業医もたくさんいます。そんなお医者さん達の、診療現場、開業秘話、人生観、休日の過ごし方、夢などを、教えてもらいました。

第96回
石井皮膚科医院
石井敏直先生

朝鮮からリュックサック一つで引き揚げて来た少年時代

 僕は戦時中、朝鮮半島の南、今の韓国で生まれ育ちました。釜山から汽車で5時間程の所にある晋州という街で、父が開業医をしていたんです。患者さんは10対1で朝鮮の方。街に溶け込んで暮らしていましたが、「中学からは内地で勉強を」ということで、博多市の福岡県立修猷館中学校に通いました。しかし日本への空襲が日に日に激しさを増し、釜山市にあった日本人中学校に転校。そこで間もなく終戦を迎えることになります。
 終戦後、日本人は全員引き揚げることが決定しました。僕たち家族もそれまでに築いて来た全てを捨てて、リュックサック一つで引き揚げ船に乗ることになったんです。父がちょうど終戦の1年前に病気で亡くなっていましたから、母と弟と三人での帰国。僕が旧制中学3年生の時のことでした。
 僕たち家族は九州に向かいました。長崎に軍医をしていた兄がおりまして、幸い長崎県大村市の官舎に住めることになったんです。狭いながらも家族揃っての日本暮らしが始まりましたが、とは言うものの、母は女手一つで僕たち兄弟を育てることになり、大変な苦労の連続でしたよ。神社の境内で引き揚げ者たちが集まって闇市を開くことが決まると、母も店を出すことに。僕もその仕入れを手伝いながら学校に通う日々でした。そんな中で、いつしか父や兄と同じく医者になろうと思うようになっていたんです。結局、僕たち六人の男兄弟は全員医者になったんですよ。
 大学は、親類筋の人を頼って大阪に住まわせてもらうことになり、大阪大学に通いました。ところが2年間の教養課程を終えたところで、お世話になっていたその方の会社が倒産。今度は小田原で開業していた元軍医の兄を頼ることになります。当時は教養課程を終えたところでもう一度専門課程の入学試験があり、東京医科歯科大学に合格。いよいよ医学の道を歩き出すことになりました。

無欠席で通った大学時代

 そうやって進学した大学時代、僕は無欠席で講義に通いました。と言うのも、何せ母がお金で大変な苦労をしていましたから、高価な医学書や教科書を買う余裕なんて全くないんです。講義をしっかりと聞くことが僕に出来る全てでした。
 ところが、そんな僕が、皮膚科の授業で居眠りをしてしまったことがありました。原田教授という、ことのほか物静かな先生の講義で、ついつい聞いているうちに眠くなってしまったんですね。しかし面白いことに、これが現在にまで至る僕の人生の進路決定に大きく結びついて行くんです。と言うのも、眠っているときでも脳は周囲の音を聞いていますから、うつらうつらした眠りから目覚めたとき、「今、何かとても示唆に富んだことが話されていたな」という記憶が頭の中にはっきりと残っていたんですね。「この先生の講義は絶対に聞き逃してはいけない」と、次回からは最前列に陣取るようになりました。そうやって熱心に学ぶ中で、やがて皮膚科を志すようになって行ったんです。
 卒業後は、1年のインターンを経て大学院に進学しました。すぐに現場に出るのではなく、まだ研究を究めたいという気持ちがあったからです。ただ、そうは言っても研究は昼間の診療を終えてから。夜間に実験を繰り返して論文をまとめ、4年後に博士号を取得することが出来ました。

群馬大学で医師としてのスタートを切る

 大学院修了後は、群馬大学へ赴任することになりました。ただ、実はこの話はすぐに決まった訳ではないんですよ。しばらくはなかなか就職先が見つからず不安な日々を送っていましたが、或る日、恩師の原田先生から「群馬大学の山碕(やまざき)教授が人を探しているので、君、行ってみませんか」というお話がありました。“山碕天皇”と呼ばれていたくらい厳しい方だと評判でしたから、先輩たちからは「とても持たないよ」「石井君、辞めた方がいい」と忠告を頂いたのですが、とにかく群馬へと伺ってみました。すると案に反して山碕先生は大変優しく接して下さり、「私、参ります。よろしくお願い致します」とするすると述べていました。以降、37年間続く群馬での生活が始まります。
 群馬大学の皮膚科は、当時、皮膚病の予後についての研究に力を入れ始めていました。助手として入った私にも「掌蹠膿疱症の予後調査と治療」という課題が与えられ、治療と研究にいそしむ日々が始まりました。とは言うものの、皮膚科は助教授以下数名の小所帯でしたから、外来と入院患者さんの治療に大半の時間を使う毎日でした。それでも、東京ではあまり診ることのなかった希少な疾患と数多くめぐり逢い、貴重な臨床経験の機会を与えてもらった日々でしたね。
 やがて助手から講師に昇進。その後更に助教授に昇進してからは、診療、研究、講義と多忙を極めることになりました。実は家族を東京・中野に残していて、月に数回東京に戻る単身赴任生活を続けていたのですが、助教授就任以降はそれすらも難しい。ついに家族を前橋へ呼び寄せ、群馬を人生の拠点とすることになりました。
 そんな助教授時代は、診療もちろん、学生への講義にも力を注いだことが良い思い出です。皮膚科は特に疾患の種類が多く、名前も似たようなものばかりで大変に煩雑な科目なんです。自分も学生時代に苦労した思い出がありましたから、独自のプリントを作って分かりやすく講義しました。とても好評で、毎回たくさんの学生諸君が熱心に聴講してくれたのが嬉しかったですね。
 そう言えば、医師国家試験科目に皮膚科が選択された年は、学年代表の学生から「皮膚疾患の集中講義をしてほしい」と依頼がありましてね。毎日午後の4~5時間、空き教室を使って立ちっ放しで講義を続けました。椅子が足りず、学生たちも立ったまま熱心にメモを取ってくれた姿が、今でも鮮やかに記憶に残っていますよ。

国立高崎病院へ


院内のあちこちには職員手書きのお知らせが

 そんな思い出深い群馬大学を出て、68年からは国立高崎病院へ移ることになりました。当時の群馬県では群馬大のある東毛地区以外の地域では、まだまだ皮膚科に対する専門意識が低いのが気になっていましてね。西毛地区の中心病院である高崎病院で、僕が就任すれば皮膚科を独立させても良いという話があり、移籍することに決めたんです。
 そうやって一人医長としてスタートした高崎病院の皮膚科でしたが、色々工夫をして、全く一人で切り盛りするということはほとんどないようにしました。例えば、過疎地域の国立療養所に週1回診療に出向く代わりに、そこの空き定員を借りる‥なんて工夫をしたり、「無給でも良いから研修をしたい」と申し出てくれる医師がいたり。
 また、県内のあちこちの医師会から講演を頼まれ、積極的に出向くようにもしていました。すると或る日「先生のおかげで皮膚科の専門性が認知されました」と同業の皮膚科医から言って頂けましてね。こういうことが大きな励みになりました。
 83年には救命救急センターが発足し、全身火傷など、緊急性の高い患者さんに対応出来る体制が整ったことも大きな出来事でした。このようなたくさんのことの積み重ねにより、群馬県内はもとより埼玉県からも、高崎病院の皮膚科を訪れる患者さんが増えて行ったんです。様々な希少な疾患の治療に当たることにもなり、学会報告も数多く行いました。火傷の植皮手術で、午前9時から始まり深夜1時までぶっ通しで手術し続けた、なんてこともあったんですよ。超多忙としか言いようがない日々でしたが、しかし、心底充実していましたね。
 そんな高崎病院での診療生活の中で、二つ、忘れられない思い出があります。一つは、工場での作業中、熱湯槽に転落して重症の火傷を負った患者さんを治療したときのこと。他院では左下肢切断もやむを得ないと診断されたほどの重症でしたが、3回の植皮手術とリハビリによって完治にまで至りました。その方の中学生の息子さんが、度々病院へお見舞いに来られていたのですが、お父様が回復されて行く姿を間近に見て、「医者になろう」と志してくれたんです。そして数年後、見事に初志貫徹して医大に合格。その後、内科医となってアメリカにも留学されたと聞きました。医師冥利に尽きる出来事でしたね。
 また、もう一つの思い出は、群馬大学の医学部生が私の診療を見たいとやって来たときのこと。夏休みの3週間彼を受け入れることにして、あわただしい中にも出来る限り丁寧に解説を行いました。夏休み終了後、この学生さんは「私も皮膚科をやりたくなりました」と言ってくれましてね。現在、臨床の大家として知られる獨協医科大学の山崎雙次教授がその人です。これも私にとって忘れることの出来ない嬉しい思い出の一つですね。

病院管理者としての日々


診療室には、37年間過ごした群馬の高崎観音の絵が飾られている

 その後、88年に副院長、93年には病院長に就任することになりました。副院長時代には事務方から「診療はほどほどにして、もう少し行政に力を入れて下さい」なんて注文が出たくらい、診療も変わらずめいっぱい行っていたのですが、院長職に就いた後はさすがに断念。管理者としての職責に専念することになりました。
 当時、国立病院の収支はほとんどの施設が赤字で、内外から厳しい視線が向けられていましてね。しかし、だからと言って診療の質は落としたくない。そこで僕は医長会で二つのことを徹底してもらうことにしたんです。
 一つ目は、患者さんに出した薬の付け忘れなど、診療項目の“記録洩れ”を徹底的になくすこと。もう一つは、保険で認められていない高額の検査をバンバン出すような、ルーズな診療を絶対に認めないこと。たったこの二つのことだけだったのですが、優秀な事務方の支えもあって、僕の院長時代の最後の年度には黒字に転換させることが出来ました。
 経営改善と言うと、どうしても、必要でもない薬を出したり検査をどんどんやって儲けを作ろうという方向に走りがちですが、医療は金儲けではなく“奉仕”だというのが僕の信念です。まっとうなことをまっとうに行うだけで、ちゃんと経営を改善することも出来るんですよ。
 また、僕の院長時代に、全医師と職員が参加する院内学会も発足させました。先ほども申し上げた医療人としての奉仕の心、ここに常に立ち戻るために、意識向上を目指した講演会や発表を行いました。また、それぞれの部署でどんな業務や診療が行われているのか、互いに理解を深めてもらうための発表もありました。医療人としての意識向上に大きく役立ったと思っています。
 こうして大学院卒業以来35年、国家公務員医師として定年まで勤め上げました。実は94年には肺動脈血栓症という大病に見舞われ、命を削るような思いでの勤務でもあったのですが、無我夢中で走り続け、実り多い35年間だったと思っています。

東京で開業。地域医療に取り組む日々

 高崎病院を定年退職後、2年間、請われて群馬県内の私立病院で顧問を務めた後、なつかしい東京へと戻って来ました。98年、自宅近くのここ鷺ノ宮で皮膚科医院を開業します。
 以来、13年。心がけていることは、皮膚科医としての専門知識に基づき、きちんとした、ごく当たり前の治療をすることです。皮膚科の看板を掲げながら実情は内科の片手間に診療をしているといったケースも少なくありませんが、やはり専門医に診てもらうことが一番。治療法が正しくないばかりに長引いてしまう皮膚病だってあるんですよ。昼休みにも手術を行うなど、相変わらず忙しく過ごしていますが、手術をした若いお母さんがその後、元気に自転車で走っている姿を見かけたりしますとね、地域の中で医療に従事することの喜びを感じます。
 僕はとにかく体を動かすのが好きなので、日々の息抜きとしては、昔は寸暇を見つけてはスポーツをしていました。特にボーリングが好きで、高崎病院時代は若手の医師と組んで、全国医師ボーリング大会のダブルス部門で優勝したこともあるんですよ。ただ、大病をしましたので、今は激しい運動は控えています。ゴルフの回数もだいぶ減りましたね。
 医師として、国立大学・国立病院という公的病院で無我夢中で35年を送り、今は地域の中で、また新しい気持ちで真剣に医療に取り組んでいます。時に難しい皮膚疾患を診ることもあり、医師の道に終りはないと感じます。人々に奉仕するこの道を、元気の続く限り歩み続けて行きたいと思います。

取材・文/西本摩耶(にしもと・まや)
フリーランス・ライター。広告代理店勤務を経て、2007年より独立。ビジネス人インタビュー、広告業界関連書籍など執筆多数。近著は『プレゼンのトリセツ』(ワークスコーポレーション刊、共著)。

石井皮膚科医院


西武新宿線「鷺ノ宮」駅下車、中杉通りを南に徒歩8分。
詳しい道案内は、医院詳細ページlから。

診療科目

皮膚科

石井敏直先生略歴
1956年 東京医科歯科大学医学部卒業
1957年 東京医科歯科大学病院インターン
1961年 東京医科歯科大学大学院修了。医学博士号取得
1961年 群馬大学医学部助手
1963年 同講師
1966年 同助教授
1968年 国立高崎病院皮膚科医長
1988年 同副院長
1994年 同病院長
1996年 高崎黒沢病院顧問
1998年 石井皮膚科医院院長
2004年 叙勲:瑞寶中授章


■所属学会
日本皮膚科学会功労会員、日本臨床皮膚科医会特別会員、群馬実地皮膚科医会名誉代表


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