第10回 “開業医”だった祖母の遺志を引き継いで
[クリニックインタビュー] 2009/02/27[金]
大学病院が医療の最先端とは限りません。患者のこと、地域のことを第一に考えながら、独自の工夫で医療の最前線に取り組んでいる開業医もたくさんいます。そんなお医者さん達の、診療現場、開業秘話、人生観、休日の過ごし方、夢などを、教えてもらいました。
第10回
宮崎整形外科
宮崎祐院長
“開業医”だった祖母の遺志を引き継いで
私は自宅で、産婦人科医だった祖母の手による帝王切開で生まれました。祖母は昭和11年にこの場所で開業し、平成9年までの62年間、現役で活躍していたような人です。94歳で亡くなりましたが、その前の年までずっと現場に立っていたんですよ。私が医師を目指した背景には、そんな祖母の存在が大きく関係しています。
当時、家には5床のベッドがあり、四六時中患者さんが家の中にいる環境で私は大きくなりましたので、常に患者さんと、医師としての祖母を身近に感じていました。
祖母はいつも「患者さんを大事に。地域の人を大事に。なにかの時には役に立て」と繰り返していました。高校2年になる頃に「医学部を受けようかな」という気持ちを抱くようになったのも、そんな祖母の影響が大きかったですね。
大学に進み、そろそろ進路を決める5年生の時点で、「内科系と外科系のどちらかでいうと、おそらく自分は外科系だろう」と考えました。また、父は外科医だったんですが「外科医の子どもだから自分も外科医に」というのは全然しっくり来ませんでした。それに父は多忙だったので、休日に出かけても呼び出されてすぐ帰らなくてはならないことも多く、それがやっぱり、寂しいしちょっと嫌だったんですよね。
そんな気持ちも手伝って、父とまったく同じ科に進むことは選択肢にありませんでした。最終的には手先が器用で繊細な作業が得意だったことから、父と違う専門の整形外科に進むことにしました。
そして医局に入り、整形外科の道を歩みだして5年。ようやく一人前に手術や学術研究に没頭していた頃、祖母が他界してしまったんです。父は外勤をやめて祖母の残した土壌で開業しなおすか考えていましたが、開業医になるということは手術の前線から退くのと同義です。熟慮の末、まだメスを置く時期ではないということで、開業は見送ることになりました。だけど、医院だけ残ったまま機能していなかったら、それはシャッターが閉まっているお店と同じでなんだか寂しいものです。
そこで、「開業するなら若いうちにするのがベターだ」という諸先輩の助言を聞き、私が開業に踏み切ることになりました。本当は、全部で10年くらい病院に勤めたかったところですが、とにかく祖母の面影が地域から消え去ってしまう前にと思って、急いで開業の準備に取り掛かりました。
病気を治す、ではなく「人を治す」
建て替え工事をして平成12年にスタートして以来、「宮崎整形外科」は徐々に設備を充実させながら今に至ります。
そんな経緯を踏まえているので、当院はあくまでも地域に根差したクリニック。ご近所の方を中心に、毎日200名前後の患者さんを診ています。住宅街という立地から、腰痛・膝痛などの慢性疾患が主な患者さんで、外傷ではスポーツ障害や手指足指のケガなど、生活の中でのトラブルで見えるケースがほとんどです。それだけに、つねづね地域医療として貢献していきたいという意識を強く抱かせられますね。
医院にはそれぞれの特徴に応じて果たすべき役割がありますが、開業医というのはいちばん患者さんの近くにいる存在。病気を治すというよりも、人を治す役割を果たせたらいいなと思います。
当院では手術ができませんから、最終的に治せない傷病もありますが、それでも患者さんの近くにいるからこそできることがあるわけです。それはメンタル面のケアのように、「あれ、普段と様子が違うけど大丈夫かな」と逸早く気づくことだったり、あるいは小さなことでも親身になって相談に乗って差し上げることだったりします。開業医として、患者さんに親身になっていくことが当院の理想ですし、同時にいつも掲げる目標でもあります。
ここに来る患者さんは、地域の方々。地縁というつながりが深い分、みなさんのことは心から大切にしていきたいと思っています。患者さんだけでなく、地域の力になっていけたらいいですね。医師会と区が主催する健康講座の整形分野を担当したり、災害時のボランティアドクターに登録したりしているのもその一環。この土地に関わる者として、土地のためになにかしら還元したいと考えています。
井の中の蛙には、なりたくない
祖母は高齢になっても頭はクリアで、とても自然に診療に勤しんでいました。ただ、脚は弱ってきていましたから、そのぶん幼い頃から介護を経験させてもらってはいました。そうやって年配の人と日常的に関わってきたためか、今は高齢の患者さんからはありがたい言葉をかけていただけます。「先生に診てもらうと治ったような気がするよ」って。自分もお年寄りといるとほっとしますしね、そんな時には「この仕事を選んでよかったなあ」と素直に嬉しく思います。
ただ、そうは言っても医者は悪いところを治さないといけません。開業医として独立し、研究現場や大勢の医師が切磋琢磨する環境から離れてしまうと、井の中の蛙になりやすく、学術的にも置いていかれてしまいがち。ですから私はできるだけ、学会などの発表の場には積極的に出向くようにしています。医局勤務の頃と同じように、知識を日々蓄えて今後も勉強していきたいものです。
忙しい現場を忘れないための努力の一つとして、がんばって設備を整えてもいます。エレベーター、多目的トイレのようなバリアフリーの手段も揃えましたし、72畳分のスペースを使ったリハビリスペースをはじめ、胃カメラ、マンモグラフィ検査機、また腰椎骨密度測定機といった比較的高額のインフラも導入しました。現在は一緒に働く父が乳腺専門外科をしているため、がん検査や治療のための設備も用意しています。「クリニックでそこまでやる?」と言われるような機械まで、実は置いてあったりします(笑)。
![]() 痛みを緩和するレーザー治療器 |
![]() 3分で骨密度が測れる、最新の腰椎骨密度測定器 |
![]() 慢性疾患・疼痛に効果的な低周波治療器 |
海釣りで非日常に没頭する
本当は定期的に運動して体調管理をしないといけないし、患者さんにもそう言っているんですが、自分はほとんどできていないのが実情です。空き時間や診察時間後には医師会のセミナー準備などの業務にも取り組んでいますし、今の私にとってまとまった時間を運動に確保するというのは結構難しいものです。ただ、今後は隙間時間を見つけて運動するなど考えないといけないですね。健康のためにやっていることといえば、かろうじて毎年健康診断をきちんと受けていることくらい。まあ、それも大事なんですけど。
そんな生活の中、唯一続けているのが海釣りです。大物と格闘する時以外はあまり運動という側面は強くありませんが、太陽に当たって新鮮な空気を吸って、海の上という非日常に飛び出すことで、いいストレス発散になっています。
よく行くのは三浦半島。毎月1回のペースでスタッフたちと通い、釣り船を出して鯛、鯵、烏賊などいろいろ釣って調理し、振舞ったり頂いたりして楽しく過ごしています。船の上で干して干物にしたりもするんですよ。釣りは回を重ねるごとにだんだん凝っていくので、結構お金がかかってしまっています(笑)。
広告代理店のコピーライターを経て、現在フリーライターとしてロンドン・北京・東京の三都市を基点に活動。被虐待児童におけるトラウマティック・ストレス学、および漢方による精神疾患アプローチに関する研究をライフワークにしている。
宮崎整形外科
医院ホームページ:http://www.youga.net/miyazaki/index.html
東急田園都市線「桜新町」駅から徒歩5分。詳しいアクセスはサイト内道順案内から。

診療科目
整形外科・リハビリテーション科・乳腺外科・外科・胃腸科
*頭痛、首・肩・脚・膝・肘・腕・手・腰・背中・ももの痛み、スポーツ障害、骨粗しょう症、基本検診、乳がん検診、胃がん検診など
【設備:腰椎骨密度測定器・デジタルレントゲン・マンモグラフィ・超音波検査・胃カメラ/リハビリ室および各種リハビリ機器】
※各種保険取扱医療機関
![]() 効率的にデータを呼び出せるデジタルレントゲン |
![]() 処置室やリハビリ室のベットはすべてカーテンで仕切れるタイプ。プライバシー確保の気遣いが嬉しい。 |
![]() バリアフリー設計のトイレは1階と2階それぞれに。広々使えるので車イスでも安心 |
宮崎祐(ゆう)院長略歴

1994年 公務員共済稲田登戸病院整形外科勤務
1995年 けいゆう病院整形外科勤務
1997年 慶応義塾大学病院月ヶ瀬リハビリテーションセンター勤務/都立大久保病院整形外科勤務
1999年 慶応病院整形外科勤務/「宮崎整形外科」開業
2000年 日本整形外科学会専門医取得
2003年 平成15年度日本オリンピック委員会強化スタッフ委嘱・日本体操協会所属アンチドーピング委員会委員
2004年 日本体育協会公認スポーツドクター取得
■所属ほか
整形外科専門医・日本体育協会公認スポーツドクター
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